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【 山本五十六記念館 その1 】

【 山本五十六記念館 その1 】 

5/29の午後、K部長と私オヒョウは、弥勒菩薩を見た後に、山本五十六記念館に立ち寄りました。旧海軍には多くの司令長官がいた訳ですが、なぜ山本五十六が特に慕われるのか・・ちょっと知りたい気持ちがあったからです。

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記念館に収蔵されているのは、遺族や知人から寄贈された手紙や身の回りの品が主です。 山本五十六に関する新しい知識を得たという事は、特段なかったのですが、彼の直筆の書を見ると、彼が能書家であった事が窺い知れます。 少年の頃の手紙文などを見ると、今の子供にはとてもこんな手紙は書けないな・・と思ってしまいます。 しかし、明治時代、旧制中学に学ぶ生徒の文章力は、皆一様に高かったのでは?という思いもあります。

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脱線しますが、歴史上の著名人は、多くが友人や家族宛の手紙を残しています。 それらが研究用の資料としての価値だけでなく、骨董品として価値を持つのは「開運なんでも鑑定団」を見れば分かる通りで、山本五十六の書簡も高く評価されているはずです。 しかし、これからの著名人はあまり手紙や直筆原稿を残さないはずです。 それは電子メールがあまりに普及したこと、毛筆で書く習慣が廃れた事が理由ですが、ちょっと詰まりません。これからの偉人の記念館には手紙を収蔵できない・・。

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手紙文以外で有名な文書といえば、電報文に打たれた「本日ノ天候、天気晴朗ナレドモ波高シ」で、日本海海戦の直前に秋山真之が作成したものです。 電報に文学的表現が用いられた嚆矢とも言えます。

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その「天気晴朗」という言葉は、中学生の山本五十六が越後米山に登山した時の旅行文に登場します。兄宛の手紙の体裁をとっており明治三十一年の文章です。 秋山の電文よりかなり早い時の文章であり、「では当時、『天気晴朗』という表現は文学的でも何でもなく、当たり前に使われていたのですか?」とオヒョウがガイドの男性に尋ねると、しどろもどろになり、「さあ、何とも分かりません」との事です。

意地悪な質問であり、ちょっと気の毒な事をしました。

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実のところ、少年時代の五十六には興味がありません。オヒョウにとって興味深いのは、彼の米国留学から駐在武官にかけての時代です。 彼はハーバード大学に留学し、その後大使館付きの駐在武官になっています。

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今、日本の在外公館に属する、防衛省の制服組の駐在武官は非常に軽んじられています。 ひどい大使館では、大使主催のパーティーの駐車場整理係になっていたりします。 これはシビリアンコントロールの概念のもと、武官を文官の下に置く発想によるのか、外交官試験も国家公務員試験も合格していない自衛隊員を低くみる風潮によるのか、分かりませんが、要は大使の考え方次第です。

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しかし、山本五十六の時代は違いました。 軍人間の外交というものが重要であり、かつスパイとしての役割もあり、戦争や紛争があれば観戦武官としてレポートする任務もありました。

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山本五十六は、かなり優秀な駐在武官だったようです。でも、展示品を見てみると、思わず笑ってしまう部分もあります。ナショナルジオグラフィック誌を愛読し、地理情報の収集に務めた・・とありますが、それならオヒョウだって定期購読していました。褒める程の事でもありません。

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自費でメキシコまで行き、石油資源の調査を行ったともあります。日本ではあまり産油国のイメージが無いメキシコですが、実は重要な産油国です。全く余談ですが、メキシコシティに行くと、同国最大の石油資本PEXCOの巨大なビルがどこからも見えます。テキサスやカリフォルニアの油田に比べて、メキシコやメキシコ湾の油田は開発が後になり、第二次大戦前の時点ではそれほど注目されていませんでした。そこに着目していたとは、慧眼の持ち主です。

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でもまてよ。彼は重要な点を見落としている・・・。ニューヨーク、シカゴ、テキサス、サンフランシスコ、シアトル・・・彼の訪問地を追ってみて気づきます。彼はミネソタにもオハイオにも行っていない・・。

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二十世紀の戦争は、鉄と石油の戦争でした。第一次大戦、第二次大戦の両方を見た場合、粗鋼生産量の多い方が勝利しています。そして石油の産出量の多い方が勝利しています。

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日本の場合、陸軍は、戦力とは兵隊の数に比例すると考えていましたが、海軍は、艦船の数、さらには鉄鋼の生産量、燃料となる化石燃料に依存すると考えていました。

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航空戦力の重要性を見抜き、大艦巨砲主義を排した山本五十六ですが、彼とて鉄鋼産業の重要性を知らなかった訳ではありますまい。

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開戦当時、米国の粗鋼生産量は、日本のそれのちょうど10倍でした。高炉の出銑量の差はもっと大きかったのです。 真珠湾で数隻の戦艦を沈めたところで、米国の建艦能力、或いは鉄鋼の生産能力が温存されれば、またたく間に挽回され、日本の戦力が圧倒される事は明らかでした。

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海軍の駐在武官として、米国の鉄鋼基地クリーブランドのあるオハイオにも、メサビ鉄山のあるミネソタにも行っていない・・・調査不足ではないか?

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オヒョウが初めて米国に行った時、飛行機で飛んでも飛んでも東海岸に着かない広大なアメリカ大陸を見て、こんな国と戦争したとは、全く愚かな事をしたものだ・・と思いました。 米国を知らない人が日米開戦を叫んだのなら、無知ゆえの行為と言えますが、米国を熟知する人が開戦を遂行したのなら、これは犯罪と言うべきです。

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米内光政、井上成美、山本五十六らは、命を掛けて日独伊の三国同盟に反対し、日米開戦に反対したと言いますが、実際には誰もそれで命を落としていません。 職を賭してと言いながら、普天間移転の不首尾の責任を取らない、どこかの首相と同じです。開戦の詔勅が下れば、諾々として開戦の作戦を練っています。本当に命をかけて、開戦を阻止していれば、原爆も東京大空襲も沖縄戦も普天間問題も無かったのです。

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どうして、彼らは戦争を始めたのか・・。知る人の無作為は、知らない人の作為より遥かに罪が重いのではないか?とオヒョウは思います。 

以下 次号


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匿名

 本当に山本五十六について知りたかったら、
♯名著「人間 山本五十六」/反町栄一 著(昭和25ごろ出版)※古い本なので、図書館で原本を観覧するか、それを編集した本を借りる事をおすすめします。
♯2.御子息の著書「父 山本五十六」/山本義正 著(昭和30年代初版で、現在も書店にて購入可)

以上の二冊を読めば、山本五十六の全てが理解出来ます。

 以上、参考にて
by 匿名 (2010-06-01 17:13) 

笑うオヒョウ

匿名様 コメントありがとうございます。

今週は時間がないのでできませんが、アドバイスに基づいて、反町氏の本を探してみることにします。
ご子息の山本義正氏は、東京の外国特派員クラブで、「父 山本五十六を語る」という講演をされた事があるそうですね、外国人記者の間では、非常に評価が高い講演だったそうです。 日本のマスコミは無視しましたが。

またのコメント(特にご批判とアドバイス)をお待ち致します。
by 笑うオヒョウ (2010-06-01 23:28) 

匿名

オヒョウさんへ

 おはようございます。
ご丁寧なご返事ありがとうございました。
 アドバイスや批判だなんておこがましいですが、山本長官については少しばかり知っていたので、少しコメントさせて頂きました。
こちらこそ参考になったら嬉しいです。

反町栄一さんの著書
「人間 山本五十六」は、直接 ご本人やそのご家族と親しかった郷里の方の書かれた本なので、全ての五十六本の情報源となっているものです。
ですので、ぜひ時間がお取りになれたらご拝読をおすすめします。
期待にたがわぬ物と思います。
 それでは、これにて失礼致します。

追伸 義正さんの講演や記者会見の事は初めて知りました。
本当に今の日本のマスコミは、訳が分かりません。貴重な情報をありがとうございました。
by 匿名 (2010-06-03 06:03) 

笑うオヒョウ

匿名様 コメントをありがとうございます。

今度の週末、所用で上越の図書館に参ります。 上越市の場合、山本五十六を、郷里の人物とみなすかどうかは分かりませんが、昭和25年の書籍でも残っているかも知れません。

確認してみます。次のコメントをお待ちします。
by 笑うオヒョウ (2010-06-03 10:32) 

大空春香

根本的に、開戦経緯や海軍の組織や役割を理解されてないようですので、
無駄とは思いますが、何か今後のご参考の一助になればと書かせて頂きます。

>「晴朗」は当時当たり前に使われていたのか? (この質問は、日記捏造の意味か?)
当たり前に使われていました。
「晴朗」という語は、東郷司令部の秋山参謀が作った言葉ではありません。
そもそもこの「本日天気晴朗ナレドモ波タカシ」 という文章は、中央気象台による
日本海の天気予報「本日天気晴朗ナレドモ波高カカルベシ」を引用したものであり、
当時新聞の天気欄などでも国民に広く認知されていたものですし、また晴朗という
語は漢語由来であり、現代中国でも日本の晴朗と全く同じ意味で使われています。

晴朗の使用例
●「晴朗」は漢語。現代中国語も日本と全く同じ意味。
「天空晴朗,一星星薄云也没有」(空は晴れわたり,一点の薄雲さえなかった)
●林羅山(江戸時代初期の学者)の秋江夜航という詩に
「秋天晴朗武江浜 一葦所如風物新」とあり。
●徳冨蘆花の小説「思出の記」初出:「国民新聞」明治33~34年(1900~1901)連載。
「或る晴朗なる夏日に・・・」とあり。
●夏目漱石「我輩は猫である」初出:「ホトトギス」明治38年(1905)1月~8月号
「天気晴朗とくると必ず一瓢を携えて墨堤に遊ぶ・・・」とあり。
●日本海海戦は明治38年(1905年) 5月27日 - 28日
●中央新聞 明治45年5月30日 農業用語に使われている。、
「成熟期収穫期に於いては晴朗乾燥が必要」とあり。
●大阪新報 大正2年12月31日
「天気晴朗風穏かにして一点の申分もなき秋日和なりし」


>ナショナルジオグラフィック誌を愛読し、地理情報の収集に務めた・・
別におかしくはないと思います。情報収集は一般刊行物による物が基本。
映画のスパイもどきの行為は米国側の監視があり、ほとんど無理。
たとえ実施してもそれを公開するわけがない。


>鉄鋼、石油の重要産地に行ってない。
そういう有名な場所は既に他の武官らの報告や種々の情報があるのは当然でしょう。

>命を掛けて三国同盟に反対し、日米開戦に反対したといいながら、阻止も死にもしなかった。
その三人が関係部署にいた時に同盟阻止したのは間違いないです。
それは昭和13年から昭和14年の頃。
しかし昭和14年8月末に平沼内閣が崩壊し、三人はその部署から異動します。
山本は連合艦隊長官として東京を離れる。米内、井上も同様。
従って、秘密裡に陸海軍と政府の首脳らで行われる同盟締結や開戦決定の会議には
山本らは全く関与できないので、どうすることもできないのは理解できますか?

>命をかけて、開戦を阻止していれば、原爆も東京大空襲も沖縄戦も普天間問題も無かった
そういう問題を何故実施者にぶつけるのでしょうか?貴方が当事者であればどうだったのでしょうか?
命をかけてやれたのでしょうか? 自分に聞いて見てください。
誰一人そんな慧眼など持っていなかったし、できなかったことを貴方は自分なら出来たというのでしょうか?

>どうして戦争を始めたのか
貴方は決定・命令者と実施者の違いも理解できないのでしょうか?
上にもあるように山本は戦争決定に全く関与していませんよ。
大本営政府連絡会議や御前会議などで戦争が決められたわけであり、そこに山本が出ていたわけではない。
そこで決まったことが大元帥天皇が承認し国策となり命令となったのであり、
軍人は命令がされれば、死が待っていようが敵に向かっていくのが使命。
特攻隊員が命令に従って突っ込んでいったように。当時国民はそれが当然との認識。
by 大空春香 (2016-11-09 13:45) 

笑うオヒョウ

大空春香様
コメントありがとうございます。
私の管見を種々述べたいと思いますが、スペースが足りないので、別途、拙稿にしたためたいと思います。
まず、天気晴朗ナレドモ波高カルベシについてはその通りで、天気予報の文言そのものです。しかし、秋山真之のこの電報は、山県の批判もあり、特に有名になった電文です。五十六がそれを知っていたのは当たり前で、それが彼の詩文に現れたのは当然と思います。

命令者と実施者については、長文になりますが・・、
私は、太平洋戦争開始時点、あるいはその前の日中戦争(あるいは日華事変)開始時点で成人であった日本人には、なにがしかの戦争責任があると考えます。但し、等しく一様・・ではなく、より多くの情報に接しえた者、政策決定者ではなくても、それに近い立場にあった者には、より多くの責任があると考えます。20世紀の戦争では、あまりに多くの無辜の人々が犠牲になりました。しかもきわめて残酷で理不尽な方法で生命を、人生を、生活を奪われました。その責任問題を考えた時に、その時、政策決定に参与した立場ではなかったから・・・という言い訳は通じないと考えます。五十六自身は、当時としては、一般市民よりはるかに多くの米国についての知識を持っており、その立場上、生命を賭してでも反対に動くべきでした。 これが米国にも英国にもドイツにも行ったことがない多くの国民であれば、仕方ないことですが、少なくとも彼には米国と正面から戦争すれば負けることが分かっていたのですから。
数百万の人々が亡くなり、そして敗北することが分かっているのなら、彼は開戦主義者と刺し違えるべきだったと思います。命を懸けるのが軍人ですから。

私は軍人ではありませんが、もし彼の立場であれば、そう行動したはずです。

ナショナルジオグラフィックと、フォーリンアフェアズは私も米国時代に愛読しておりました。彼なら、もっと重要度の高い情報に接していたのではないか?と思います。駐在武官とは、すなわち合法的なスパイです。

by 笑うオヒョウ (2016-11-09 23:05) 

大空春香

今日は12月8日ということで、ここを思い出して来てみました。
誤解されてる部分もありますので、最後の投稿をさせていただきます。

>秋山真之のこの電報は・・・有名になった電文です
>五十六がそれを知っていたのは当たり前で、それが彼の詩文に現れたのは当然
えっー!? タイムマシンがあったのかな(笑い)
五十六少年の日記は「明治31年」。
秋山真之参謀の電報は「明治38年」。

念のため。もう一度書きますが「天気晴朗」という語は昔から使われていたのであって
五十六の日記の「天気晴朗」は秋山真之参謀の電文とはまったく関係ありません。

>その立場上、生命を賭してでも反対に動くべきでした。
立場上とはどういう意味か? 
残念ながら、連合艦隊司令長官は海軍の政策決定過程に参画できない。
「秘密裏」に開かれるそれらの会議に連合艦隊司令長官は出ていない。
それらの会議に出て政策を決めるのは東京にいる海軍省や軍令部の首脳たち。
山本は東京にはおらず、洋上で艦隊の訓練を行なっている。どんな関与ができたのか?
また、貴方の言う「反対に動くべき」とは、いったいどういう行動か?教えてほしい。
答えられない筈だ。
そのような漠然とした願望を持つことは、当時の陸海軍政府首脳が軍事行動に
入った願望と同じではないか?
そして、当時の日本の国家体制や軍隊組織の中でそれができたか?
彼が対米戦反対の意志を上司や知り合いたちに伝えているのは記録に残っているが、
しかし一旦、国家としての命令(天皇の命令)になれば、後はそれに従うだけである。
山本の職務は国家の命令に対して最大限にそれを達成するように努力すること。
それが軍人としての彼の立場である。

>私は軍人ではありませんが、もし彼の立場であれば、そう行動したはずです。
若いんですねえ(笑い) 臆面もなく堂々とそれを言える神経がうらやましい。
私もそうしたはず、と思いたいが、私はそう行動できなかったはずです。(笑い)
軍人としても一般人としても国家の目標のほうを取ったでしょう。

>数百万の人々が亡くなり、そして敗北することが分かっている
それは神にも誰にもわからないことだったのでは?
映像文化に慣らされた方の頭には「分かっている」のだろうが・・・。
(勝てないことだけは誰にも分っていたが)

>ナショナルジオグラフィックと、フォーリンアフェアズ
>彼なら、もっと重要度の高い情報に接していたのではないか?
そのとおりですが、そんな秘密情報を本人が公開するわけがないのであって、
ナショナルジオグラフィック云々を出しているのは、
たぶん記念館側のユーモアだというのも理解できますよね?(笑い)
by 大空春香 (2016-12-08 06:37) 

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